父として、母としての使命
リタイアしてから4日目の今朝。
遅い朝食を食べ終えて新聞に目を通していると、バァバが背後から
「この記事読んだ?」 「いや・・・・何の記事?」 と、何気な朝の会話。
その記事とは道新の 『卓上四季』 と云うコラム欄。
■以下はその記事の全文です。
落ちてきた人間を、丸ごと柔らかく抱きとめるトランポリン。
「ほら大丈夫」と、また飛び立たせてくれる。
子どもの目が、母の優しさをそこに重ねた。
▼詩に書く。
< おかあさんは/どこでもふわふわ・・・・/おなかは、小人さんが/
トランポリンしたら/とおくへとんでいくくらい/はずんでいる >。
青森県の小学4年生、西山 拓海(たくみ)君の作品だ。
昨秋、詩のコンクールで入賞した
▼< おかあさんは/とってもやわらかい/ぼくがさわったら/
あたたかい、気もちいい/ベッドになってくれる >。
トランポリンもベッドも、自分を安心して預けられる。 慕う思いが伝わる。
▼入賞から半年たった四月の春の朝、その母はわが子の首にコードを巻き、
命を奪った。
拓海くんは、信じられなかっただろう。
こんな詩になるのだから、いい母だったはずだ。
やりきれない事件である。
▼よく知られた、厳しい詩がある。
茨木のり子さんの 「自分の感受性くらい」 。
< ぱさぱさに乾いてゆく心を/ひとのせいにはするな/
みずからみずやりを怠っておいて・・・・初心消えかかるのを/
暮らしのせいにはするな/そもそもが/ひよわな志にすぎなかった >
< 自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ >
心が渇き、一時の悪夢に気の迷いが起きる。
その時に、ばかものよ、と自分をしかる強さがあったなら。
柔らかく温かく気持ちのいいベッドには、もう戻れない。
ジィジはこの記事を読み終えて、
云いようの無い “悔しさと哀しさ” が頭いっぱいに交錯して広がった。
なんと云う事を・・・・・・。
昨今、余りにもこのような悔しく哀しい事件が、後を絶たずに多すぎる。
やはり “心が病んでいる” と、しか思えない。
よく事件が起こると、世間が悪いとか、教育や環境が悪いとか云々・・議論となるが、
決して、世間や教育や環境の所為になどにしてはいけない。
そういうものに責任転嫁をする事自体に、途轍もない大きな原因が潜んでいる。
茨木のり子さんの詩にもあるように、自分自身の「心のひ弱さ」が引き起こしたものだ。
たかが・・自分の感受性くらい、自分で自制(管理)する強さを持ち備えてほしいものだ。
それが最低限の “父として、母としての使命” なのだろう。
それを持てない者は絶対に『親』になってはいけないし、当然、その『資格』も無い!